山里楽耕

智尋

13年前、東日本大震災が起きたのは、
息子が生まれる18日前のことだった。

たくさんの方が津波にさらわれ、
原発事故で多くの方が故郷を追われた。

臨月のお腹を抱えて何もできない私は、
ただただ我が子をの命を守れるだろうかと
被災地から遠くにあってさえ不安に震えた。

北関東の大事な人たちに、
どうにかこちらに来れないか連絡を入れ、
自分自身も場合によっては海外に
一時避難する必要があるだろうかとも悩んだ。

家族が離散することが不安で、
夫がどこに行くにもついて行った。
夜眠るのも怖かった。
不安神経症気味だったと思う。

ただ、そんな不安は表には出さず
息子が生まれる前夜まで、
私は「なかのほう木の駅」の会議に
事務局として参加していた。
息子が生まれてくるこの地域を
この世界の未来を少しでも
希望のあるものにしたい。
いつもそんな願いが
心の中にあった。

私にとってその希望が、
日本の山里文化と
それを支える人のつながりだった。

息子はほぼ予定日にほぼ24時間かけて
心拍が下がり吸引分娩になりつつも
どうにか無事に生まれて来てくれた。
多くの人命が失われた3月に
ひとつの命を握りしめて
この世に生まれて来てくれただけで
これ以上なく感謝でいっぱいだった。

「智尋」という息子の名は、
私が考えて夫と決めた。
人の叡智を尋ね
受け継ぐ子であって欲しいと
願って名付けた。
また受け継ぐ智慧は、
両手を広げた長さ一尋であればいいと
そんな想いも込めた。

自分自身の手に余るものを抱えても、
どのみち活かすことはできない。

自分が抱えられる分だけ抱え、
足りない分は支え合えればいい。
そんな気持ちでいる。

他の候補には、
智里という名もあった。
「幸せに生きていくために
 この子に何が必要か」
そう考えたら
そもそもこの地球と地域が
人が生きていける環境でなくてはならず
そのためには人が自然と共生し
支え合って生きてきた
山里に生きる人の受け継ぐ叡智は
必要不可欠なものだと感じている。
少なくとも
私たち夫婦は。

ただ、そんな小難しい話を
小さな我が子にすることには
何の意味もなくて。
私たちはただただ、
息子が心のままに日々を味わい
心からの笑顔で今を生きていてこそ
未来はつながっていくとも感じている。
息子の名に込めた願いは
私たち自身の願いであって
息子にそれをつなぐことは
私たち自身の人生のテーマなのだ。

大きく時代が変わったとしても
普遍の真理というものはある。
地球に生きる人にとっては
それは宇宙であり地球の自然である。
つまり全くタイムスパンの違う
人の力の及ばない自然界と
どのように折り合いをつけていくか。
そして、その過程で
人類が未だ乗り越えられない
人間同士の争いをどう乗り越えて
どうやって共存を果たせるか。
そのような世界を生き抜く中で
どのように自らの心の平和を
自分自身でつくり出し人と支え合えるか。
有史以前から変わらぬ人類の宿題は
未だ終わる気配がない。

どうかこの時代に生まれた息子が
心から幸せに天寿を全うできますように。
そのためには
彼の子孫も幸せでありますように。
そのためには
つながる人や社会が
幸福な状況でありますように。
力及ばぬことなので
思い描き祈るしかない。
そして、
自分にできる一歩一歩を
歩むしかない。

ただ、彼らの笑顔がつづくことが
私自身の幸せだから
私は生きてすべきことがあり
いつでもとても幸せだと思う。
命のつながりの一つの鎖として
今ここに生きていることに
ときどきしみじみと有り難みを感じる。
今日の幸福と明日の平和のために
今この瞬間を味わいながら歩み続けよう。

そうだった、今月は
私たち夫婦の15回目の結婚記念日と
息子の14歳の誕生日が控えている。

命がつづいてここにあり
家族がともに暮らせていること
ただそれだけで十分尊いことと
本当にひたすら感謝したい。

さぁ、引き続きがんばろう。

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